河川敷

   

 

それは穏やかな初夏の河川敷だった。

 

野球をする少年、

真新しいランニングウェアでマラソンをするサラリーマン、

沢山の人達が休日の午後を思い思いに過ごしていた。
 
世代も職業も何の共通項もない人達が、みなバラバラの目的の為に、

バラバラに河川敷に集まっていた。
 
お互いに近づき過ぎない様に、

そこには適度な磁力が働いている様に見えた。
 
新興のリバーサイドマンションに住み、

整備された河川敷で休日の午後を思い思いに過ごすという、

ひとつの成功のモデルがそこに提示されている様に感じた。

 

恵まれた人達のひととき、という題名で絵にでもしたい様な風景だった。

 

だけれどそのひとつひとつの構成要素に目をむければ、

覗いても覗いても底の見えない程に深いそれぞれの人生がある。

手を取り合って散歩をしている老夫婦の姿を見てそう思った。

磁力うんぬんなどと思っている僕の思考など及びもつかない深い歴史だって、

その中にはきっと含まれているのだろう。

 

名前がなくてはならないから名前をつける。

しかし猫が猫と呼ばれても、カブトムシがカブトムシと名づけられても

そんな事は当の本人達はとんと預かり知らぬ事で、

人間にどう呼ばれていようと彼らの生涯には何の関係もない。

 

僕が、恵まれた人達のひととき、などという題名をつけて、

その風景をみていたとしても、

手をつないで散歩をしている仲の良さそうな老夫婦には、何の関係もない事で、

河川敷の風景を見ている僕という存在の中だけでそれは意味を持っている。

 

見ず知らずの人に勝手にそんな題名をつけられて眺められている事を、

そこにいる人達が知る事一生ないのだろうけれど、

でもこんな事でも、世界の構成要素のひとつとして、影響をし合っているのだろうか。

 

そしてそんな事を思いながら電車の中から河川敷を眺めている僕を、

また誰かが、勝手に題名をつけてどこかで眺めていたりするのだろうか。

 

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何が言いたいのかはどうも自分でもよく分からない。

部分が全体で全体が部分で、色んな物が循環の中にあって、

僕が恵まれた人達のひととき、などという題名をつけて見ていたって、

それ以外に山の様な側面がそこにはあって、

みたいな事を河川敷をみて感じたのだろうか?

見た当時はえらく心が震えてどうしようもなかったので、

思い出しながら書いてみたのだが、

よく分からない文章にしかならなかった。

 


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