今この瞬間の姿という奇跡

      2015/12/26

今こうしてこの文章を書いている僕がいて、
これを読んでいるあなたがいる。

でも僕がこれを書かなかった可能性、
書いたとしても違う表現になっていたり、
全然違う事を書いていた可能性が十分にあって、
山の様な可能性の中から、今の姿だけが選ばれて、ここにある。

読んでくれている方も、何時頃に、どんな気持ちで、読んでくれているのか、
どんな事があった後に、またどんな予定を控えて、読んでくれているのか、
そのタイミングによって、捉え方も全然違っていたはずで、
どこかがちょっとでも違っていれば、今の姿にはならなかったはずなのです。

今日僕は現代美術の川田祐子さんの個展を見てきたのですが、
行く前までは、今日のブログは全然別の事を書こうと思っていました。
それが今は、当初の予定とは全く違う事を書いている。
書かざるおえなくて書いている。

今日個展を見に行かなかった可能性もあったし、
見に行っても、また別の事を感じていた可能性もあったでしょう。
そうしたらまた全然違う事を今書いていた事でしょう。
どっちに転んでもおかしくなかった。
でもそんな山の様な可能性の中から、
毎日毎日今の自分の姿を選んで、僕達は生きているのだと思います。

またその奇跡の様な道は、自分で選んでいる様でもあり、
何かの必然で選んでしまっている様でもあり、
どんな人に囲まれて、どんな家に住んでいて、家の周りはどんな環境で、
今日は何を食べて、昨日は何時に寝て、今日はどんな天気で、
そしてそれらの事から自分が何を感じたのか。
それら全てが、今の選択を、必然の様にさせている面もあるのだと思います。

昨日の寝る時間が違っていたら、今日のお昼ご飯が違う献立だったら、
この文章もまた違った物になっていたかもしれません。
全てはそうした流れの中で起こる出来事なのかもしれません。

もし電車の中で、譲り合う気持ちを忘れている自分がいたら、
その瞬間にそうさせる様な環境に、常日頃身を置いていたり、
またそうなってしまう様な捉え方を自分がずっとしてきているのだという、
それがその瞬間に表れているのかもしれません。

でもそれはどこかひとつ違っていれば、変わっていたかもしれない物で、
今この瞬間をどう生きるかで、
未来は容易にどんな姿にも変化する可能性があるのだと思います。

今日個展を見に行っていなければ、今の姿の自分は無かったのですから、
してこの文章も無かったのですから。
どこかが一つでも違っていれば、今の姿ではなかったのです。

そしてその別の自分であった可能性は、本当に一瞬で過ぎ去ってしまい、
もう2度と同じ形で現れる事はありません。
そして、その一瞬の出来事で2度とはない可能性の一つが、
それを選び取った事で、今ここに自分の姿として存在しているのだと思います。

絵という物も同じで、きっと描いている時の季節や、天気や、
その方のそれまでの人生や、
色んな物が奇跡の様に混ざり合ってその絵になっていて、
どこかが一つでも違っていたら、
違う絵になっていた可能性も山の様にあったのかもしれません。
でもその中でその絵になった奇跡というのが、
そこに存在しているのだと思いました。

そしてまた、この世に存在する物は、
自分の人生も、あなたの人生も、花の形も緑の色合いも、
全てが同じ様な奇跡の姿なのではないでしょうか。

うまくまとめる事ができないのですが、
今日感じた事の一部を書かずにはいられませんでした。


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